プロフィール

師岡町内会(師岡地区連合町内会)

師岡町は、港北区の東側中央に位置した地域で、北側と南側は丘になっており、地域の中央の東から西に掛けて幹線道路環状2号線が通っています最寄りの駅は大倉山駅、少し離れた菊名駅が利用できます。師岡町内会は正式には「師岡地区連合町内会」と称し、師岡打越町内会、師岡表谷町内会師岡仲町内会、師岡南町内会の4つの町内会から構成されています。町内の人口は、10,000人を若干超えてから、最近は、緩やかな増加傾向となっています。

沿革

2017年x月
後日、記載予定
2016年x月
後日、記載予定
2015年x月
後日、記載予定
2014年x月
後日、記載予定
1992年4月
 菊名地区連合町内会から独立。
 
師岡保

 師岡の地名の初見は、一般には『倭名類聚鈔』に記されている「諸岡 毛呂乎加」とされている。当時(平安時代)、この諸岡郷は久良郡(久長峡郡)に属していた。 寿永二年(一一八三)二月二十七日、源頼朝が「相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮若宮御領」として、「武蔵国師岡保内大山郷」を寄進した記録が残っており(『神奈川県史』資料編-古代・中世川中世編二四)、「師岡」の名はその後に書かれた中世文書のなかに散見できる。「大山郷」は、「師岡保」のうちの一郷で、永和三年(一三七七)八月十三日の文書(『神奈川県史』資料編3古代・中世(3上)四七八五)によると、「鶴見郷」と称している。 『吾妻鏡』のなかには、青木氏、寺尾氏、馬場氏、平子氏、鴨志田氏、奈良氏、都筑氏などとともに師岡氏の名前が見られる。当時、この一帯は師岡保という領域に含まれていた。保というのは武蔵国を統治する国司が管理する土地で、一般に開墾した者の名を付けて呼ぶのが普通のようである。この師岡保は師岡氏によって開かれたと考えられるが、明確な史料は存在しない。しかし、師岡兵衛尉重経が文治五年(一一八九)七月、奥州藤原氏征討軍に参加しており、建久六年(一一九五)三月には諸岡次郎が源頼朝に従って奈良東大寺参詣の随兵として名を連ねていることからも、師岡(諸岡)氏はこの土地に土着して成長した一族であったと考えられる。 「師岡保」の範囲は、東は鶴見川から西は帷子川(かたびらがわ)にはさまれた広大な地域のうち、「小机保」に属す地を除いたところを指していたと推定される。多摩川下流域には、「小机保」のはかに「丸子保」、「小山田保」、「六郷保」などの多くの「保」があった。現在の師岡町は「師岡保」内であったことははぼ確実である。「保」の命名に「師岡」の名を選んだ理由の一つとしては、鎌倉時代以前、すでに天皇の勅願所となっていた熊野社の存在が関与してぃたことが考えられる。 (「港北区史」より抜粋)

師岡熊野神社 師岡の熊野神社は、貞治三年(一三六四)に別当法華寺の住僧瑞海が認めた縁起(『横濱市史稿』神社編)によると、光孝天皇が仁和元年(八八五)勅使を下して社殿を造営せしめ、次いで承安四年(一一七四)、高倉天皇が源義信の子延朗に雨乞いの祈祷をさせたところ、霊験あらたかであったので再興させ、さらに天皇は衆僧らとともに大般若経を書写し、当社に奉納、その後元暦元年(一一八四)正月八日、源頼朝が平家追討祈願のため大般若経を転読させたと伝えている。 (「港北区史」より抜粋)
  師岡貝塚 師岡貝塚は、師岡熊野神社の裏手台地の東斜面(師岡町一一三七番地)に位置している。直径一五~二〇メートル前後の範囲に貝殻が散布し、ちょうどその範囲だけ樹木と薮がなく、地面が露出している。 昭和五十五年~五十七年の三次にわたり、神奈川県立博物館により、初めて学術的発掘が実施された。 (「港北区史」より抜粋)